2023.3.22 締めのシンガポール

 カンボジアベトナムの調査が終わり、シンガポールに戻った。

  (着陸時は晴れていたけどこのあとは雨)

 インドやカンボジアベトナムはサバナ気候の乾季だったが、シンガポールは赤道直下で熱帯多雨気候。室内はエアコンをガンガン効かせるので寒いし、外に出れば湿度がすごくてめがねもカメラのレンズも曇る。

 今回は遠い昔に学会で泊まったフォートカニングのYWCAにした。ラッフルズホテルが近いのでMRTで偵察に行ったが、以前行ったインドカレーのお店は予約しないとダメだったので、回廊を一周しておしまい。

  (ラッフルズホテル

 となりのショッピングモールにスーパーがあったので食料を少し買ってホテルに戻った。ベトナムで飽食生活だったのでダイエットしよう。

 (ラッフルズでディナーじゃないの?)

 翌日はお世話になった弊社オフィスに挨拶に行き、カンボジアみやげのドライマンゴーやらカシューナッツやらをさし出したが、シンガポールには何でもあるでしょう。すみません!

 フォートカニングはシンガポールの歴史の舞台で、14世紀には王宮があり、イギリス東インド会社ラッフルズシンガポールに目をつけて上陸した場所からも近い。シンガポールはイギリス植民地として貿易の拠点だったが1942年に日本軍により占領され、1945年日本の敗戦で再びイギリスの支配に戻り、英極東指令軍が置かれた。

  (フォートカニング)

 (極東指令軍本部;現在はホテル)

 1959年自治領となり、1965年マレーシアから分離独立したのでシンガポールは若い国だが、全くもって成長著しい(物価も日本より高い)。

 (ラッフルズ像)

 

 帰りの機内では事前に「ヒンドゥーベジタリアンミール」を注文しておいたのでインドカレーにありつけたが、ヒンドゥーベジタリアンは乳製品を食べるのに、アイスクリームやバターをくれない。全日空勉強しろ。

 (ヒンドゥーベジタリアンミール)

 

 というわけで日本に帰着した。これからの方が難行苦行だろうな。

 (左手に富士山がご覧になれます)

 

2023.3.18 メコンデルタの恵み

 メコンデルタ調査では、関係者と挨拶の後は連日レストランで意見交換会(こちらはベトナム語がわからないので食べるだけ)、おなかいっぱいでも行かねばならぬ。

 カントー市博物館のスタッフとはメコンデルタの名物エレファントイヤーフィッシュ(象耳魚)のからあげ(ライスペーパーで巻いて食べる)やドジョウと青コショウの土鍋煮込み、魚のスープ、ついでに店内の看板にあった焼きネズミも注文した。焼きネズミは米やココナツを食べる「清潔な」ネズミだそうだ。切り身になっていたのでネズミだとはわからず、皮はパリパリで北京ダックみたい、肉は軟らかくておいしかった(カンボジアトンレサップ湖畔でも売っていたが食べたことはなかった)。

  (象耳魚、ドジョウ)

  (焼きネズミ)

 夕食も別の関係者と水牛のシチュー、鶏の壺焼き、ナギナタナマズのつくね姿揚げ、ナマズのスープなどメコンデルタの味覚がこれでもかこれでもか、おいしいよう苦しいよう。

  (鶏の壺焼き、ナギナタナマズ

 カントーは水上マーケットが名物で、朝5時集合でボートで行くと何のことはない、果物やおそばをボートで売りに来て、水上のお土産屋さんでお土産を買って帰るというフルコース。

  

 アンザン省ロンスエンでは博物館関係者と川沿いの(京都の鴨川の床みたいなところで)魚の唐揚げ、ナマズの土鍋(蒲焼風)、シジミいため、ザボンのチェ(ココナツミルクみつ豆みたいなデザート)もおいしいおいしい。

 

 オケオ遺跡管理委員会関係者とは遺跡のそばのレストランで魚各種唐揚げ、つくねのレタス巻き鍋、絶品さつま揚げ、川エビいため、締めは米の麺の鍋。

 

 ロンスエンの人気店でもナマズのスープ、エビいため、ナマズの土鍋、魚の唐揚げ、デザートはラウカウという寒天ゼリーで、アンザン省博物館の館長さん(こちらも女性)自らすすめてくれていただきました。

 

 市場に行ってみると、見覚えのある食材が並んでいた。

  (メコンの魚たち+α)

 ベトナム料理はヘルシーなんだけど、連日のごちそう責めでこれはたいへんなことになるぞ~。

 (メコンの日の出;ロンスエン)

 

2023.3.17 メコンデルタの遺跡

 カンボジアの次はベトナムの調査に参加した。昨年8月に次いでベトナム考古学のY先生のお供で、南部社会科学院でメコンデルタのオケオ遺跡の遺物観察の後、遺跡の現地調査のためメコンデルタを訪問した。

 カントーCan Tho直轄市ニョンタインNhon Thanh遺跡訪問のためカントー市博物館に挨拶に行くと、面会した9人中8人が女性で、館長さんも女性だった。

  (カントー市博物館)

 ニョンタイン遺跡はデルタのど真ん中の水田だったところで、現在は果樹園になっているが、濃尾平野関東平野の湿地帯と同じように、耕地にするために地面を堀って盛土するため、水面と盛土が縞状に分布する(日本では堀上田とか呼んでいる)。あ、インドのケララ州の海岸にもあったぞ。こんな場所で「オケオ文化」の遺跡が発見されている。

  (ニョンタイン遺跡)

 次は「オケオ文化」の中心地のアンザン省オケオとその周辺の遺跡を見学した。紀元前から10世紀頃までのカンボジアで言えばプレアンコールの時代で、扶南という国家があった。レンガの建造物や運河の跡、ヒンドゥー教の神像や仏像、ローマのコインや中国の鏡などが発見されており海上交易が盛んだったらしい。

  (左;オケオ、Go Sau Thuan遺跡、右;Tri Ton、Go Thap An Loi遺跡)

  (左;ブラフマ-像、右;仏像、アンザン省博物館)

 ベトナム政府としてはオケオの世界遺産登録をめざしており、省の博物館のほかに「オケオ文化遺跡管理委員会」という組織も作ってユネスコに申請している。当時の建造物は基礎しか残っていないが、屋根をかけて保存し、発掘された遺物はホーチミンカントー市、アンザン省などの博物館と「管理委員会」の展示館などで展示している。

  (アンザン省博物館)

  (オケオ文化遺跡管理委員会展示館)

 フランスや韓国、インドなどと共同研究がすすめられ、日本からはY先生のチームが調査に参加しているが、ハノイホーチミンの社会科学院と各省の博物館と人民委員会直轄の「遺跡管理委員会」などが入り乱れてたいへんそうだな~。

 (オケオ文化遺跡管理委員会にて)

 

2023.3.10  カンボジアの調査(2)

 調査の後半はN先生のお供で、遺跡の近くを流れるセン川という川沿いの地形と堆積物の調査をした。10年前と比べて道路も良くなったので、これまで行かれなかったところのサンプリングをした。

  (セン川の調査)

 3月は乾季なので川沿いの沖積低地の田んぼは刈り取りが終わった後だけれど、近年はポンプでセン川の水を汲み上げて、川沿いの田んぼに水を入れて乾季にもう一度稲作をしている。この20年ですっかり稲作も変わり機械化された。クボタの耕運機やハーベスターが動き回り、牛はたくさんいるけれど、もう牛で引く棃や牛車なんかいなくなった。車もピカピカでみんなスマホ使ってるし。

  (川を渡るクボタ)

 最初に来た頃が日本の昭和30年代とすると、もう昭和50年代ですっかり高度経済成長が進み、遺跡周辺の村もかなり立派な家が建ち並ぶようになり、屋根を葉っぱで葺いた家とかはなくなった。敷地は鉄条網で囲み、入り口は金網のフェンスである。以前は門のところに魔除けのカカシ(古着に詰め物をしたもの)がくくりつけてあったがそれもなくなった。ただし、門柱にヘルメットがかけてある家が時々ある。カンボジアのT先生に聞いたらコロナ除けとか言っていたので、カカシの代わりにヘルメットになったらしい。

  (門柱にヘルメット)

 ひさしぶりにサンボー小学校にも寄ってみた。遺跡調査を始めた日本の故K博士の友人達の基金で2005年に校舎が新築された。現在児童は200人以上、先生は9人いるそうだ。キリスト教NGOアメリカやUAEなどの援助で水道施設やトイレも増設され、教室には電灯と扇風機もあった。

 

 今回の調査にはサンボー村出身の大学生も参加している。頼もしいなあ。

2023.3.7  カンボジアの調査(1)

 4年ぶりのカンボジアでは、20年以上通っているコンポントム州のサンボープレイクック遺跡の調査に参加した。今回は筑波大のS先生のグループで、日本から考古、生物、地形などの分野から6名参加し、トレンチを掘りまくった。さらに、S先生とカンボジアのT先生の協力で、カンボジアの大学生の現地研修も兼ねており、総勢18人くらいになった。

 S先生真面目なので、初日に現地に着いたとたんに環濠のトレンチのところに連れて行かれ、いきなり断面観察が始まった(初日は遺跡や周辺部をひとまわり見る、というのが多いけど)。

 

 毎朝7時出発で日が暮れるまでトレンチを掘って、遺物、堆積物、花粉、昆虫化石などの観察とサンプリングをして、夜は各参加者がカンボジアの学生(と日本の参加者)向けにレクチャーをするという過密スケジュールだったけど、昼は木陰でお弁当とデザートのマンゴーがこれでもかこれでもかと出てきて、夜はカンボジア料理各種で、みなさん満足そうだった。

  (ヘビじゃなくてウナギが出てきた)

  (木陰でお弁当)

  (レクチャーの後はカンボジア料理、今日は珍味・蟻サラダ)

 遺跡の時代(7世紀頃)の環境がわかるといいなあ。

2023.3.4 カンボジア到着

 インドのバラナシからベンガルール経由でシンガポールに戻り、ちょっと一息いれてから、コロナ後の初カンボジア入国である。シンガポール航空シェムリアップ行きは西洋人などで満席で、着いたらタラップを降りてぞろぞろ歩いてターミナルビルに入る。

 コロナ前から入国ビザは空港で申請するアライバルビザだったが、シェムリアップ空港では申請書類も写真も不要、着いたら窓口にパスポートを出して30ドル払うだけ。パスポートにはちゃんとビザのシールとスタンプが押されていた。入場料です。

 外に出るとATMもSIMカードプリペイドタクシーもコンビニもカフェもあり、どこぞの国際空港とは大違い。ウエルカムフラワーを配るお姉さんもいた。

 

 飛行機は満席、ホテルは満室のようだが、町の目抜き通り(シバタ通り)は空き店舗も目立ち、定宿は休業中、アプサラダンスが見られるレストランも閉鎖。

 

 ホテルの目の前で屋台のおそば1ドルをテイクアウトして満足したけれど、スーパーで買い物しておつりでもらった5ドル札が少し破けており、どこで使っても拒否される。ホテルのフロントで両替屋に持って行けばと言われて持って行ったら、レートの半分なら交換してやるだって。外国人だと思ってなめられた。

 夜になってトゥクトゥクの支払いに使ったら運ちゃんサンキューと言ったのに、ホテルの中まで追いかけてきて「これはダメだ」と突き返された。ババ抜きである。

 「ノープロブレムでしょ」「カンボジアでは使えません」「そこのお店のおつりでもらったんだよ」

 

2023.2.26  ガンガー(ガンジス)のガート

 バラナシ(ベナレス)で学会があり、アンドラ大のH先生が出席するとのことで、(学会はともかく)私も行きますといって合流させてもらった。

 バラナシといえば、インドのところですべての教科書にのっているであろうガンガー(ガンジス川)の沐浴で有名なところで、実はまだ行ったことがなかった。

 バラナシはウッタルプラデシュ州で、北インドである。もうドラビダ系のくるくるした文字はなくて、ヒンディー語と英語だけで、ヒンディーだけの看板も多い。日本人観光客がカモにされるのはデリーとかバラナシに決まっているので、インドの先生と一緒なら安心だし。

 (ヒンディー語しかないのでわからない;バラナシ駅)

 朝6時にホテルに迎えに来てもらう約束で待っているとなかなか来ないので、屋台の茶屋で茶を頼むと、素焼きのカップに入っている。使い捨てだが南インドではなかなか見られない。茶屋のおばちゃんはにこりともせず茶を渡してくれる。南インドだとここでにっこりなんだけどな。

 6時40分頃迎えの車が来て、先生方4名と合流。もう日が昇っちゃったよと思ったら、ガンジス川には行かず、学会会場のベナレスヒンドゥー大学(BHU)構内のお寺参り。その後学会会場で朝ご飯を食べて、約120km離れたPrayagraj (Allahabad)にむかった。Prayagというのは川の合流点で聖なる場所なのは12年前に学習した。

 (BHU大学構内のお寺)

 Prayagrajはガンガーとヤムナが合流する聖なる場所で、でも話を聞くとサラスヴァティを加えた三川合流の地だったらしい(大昔)。その後サラスヴァティは気候変動?で流路が代わり、西へ向かった。じゃあなぜバラナシが有名なんだろう。バラナシは仏陀初転法輪の地(サルナート)があり、ここもいくつかの川が合流していたらしい。これはたいへんだ(河道変遷の歴史を知りたいぞ)。

 Prayagrajに着くと、ヤムナ川側に船着き場があり、ここからボートで合流点へ行ってお参りするらしい。ヤムナ川は緑色で濁っており、ガンガーは透明で、しばらく混ざらずに流れるのがGoogle Earthでみえる。両方の水が合わさるあたりにボートが集まり、そこからガンガーに入って沐浴する場所になっている。

  (こちらはヤムナ川

 H先生は沐浴しないというので、ほかの方3名と一緒に川に入ってみた。膝上くらいの深さで、ズボンの裾をまくって入ってみると川底は砂で、ガンガーの水をピチャピチャ頭にかけてありがたやありがたや。すかさずデジカメ持ったお兄さんが来て撮影、1枚30ルピーだという。一体どこでプリントしてるんだ?

  (右側の人がすかさず写真を売りに来る)

 (お供えはヤムナ川に流した)

 このあたりのガンガーはまだ網状流路で河床は砂で浅く、一方ヤムナ川は蛇行流路で河岸は泥っぽい。沐浴とか水をボトルに詰めて持って帰るのはガンガーの方で納得した(自分は12年前に源流のガンゴトリで水をくんだのでここはいいや)。

 

 翌朝はバラナシのガート(沐浴場)を先生方と一緒に船から見学したが、ヤムナ川と合流したあとなので泥っぽかった。焼き場が2箇所くらいあり薪が積み上げられていたが、最近は遺灰のみ流すことができ、ご遺体は流しちゃいけなくなったそうだ。昔のガイドブックなどでは、沐浴するそばにご遺体が流れている、みたいな話があったけど、ガンガーの水浄化計画プロジェクトとかも(日本の援助で)やっているらしい。

  

 

 BHUでは結局時間がなくて学会の登録料を払っただけですぐにタクシーで空港に向かったが、渋滞がひどく空港のチェックインに間に合わなかった。何しろガンガーで沐浴したのでそこは少しもあわてず、次の便のチケットを買い直し、ベンガルールに向かった。

 (BHU地理学教室)

 (新興LCCなかなかよかった)