2022.4.20 仙台~帰京
仙台市荒浜小学校は何回か見学に来たことがあったが、すぐそばの住宅基礎も震災遺構となっていた。荒浜に住んでいたというおじさんが2人ゴルフのクラブを持って浜に来ていた。「奥さんどこから来たの」「東京から」、「何の写真をとってるの」(やや困って)「小学校とか海とか」。今日は波もなくおだやかな海だった。
(荒浜の住宅跡;後方は荒浜小学校)
名取市閖上(ゆりあげ)地区も3回目くらいだったが、ここは地上げをして現地に再建している。「震災復興伝承館」のシアターでは市長が「まちは時間をかければ元に戻すことができる」と言っていた。震災メモリアル公園には人工の「日和山」の前に、昭和8年の津波のあとに建てられた記念碑に「地震があったら津波の用心」と書いてある(このときは死者なし)。
(日和山と震嘯の碑;いちばん左)
隣の岩沼市は集団移転跡地に「千年希望の丘」を14個作り、横浜国大名誉教授の宮脇昭先生の指導で植樹が行われた。集団移転先は数箇所のニュータウンになっている(仙台空港は前回卒論生と見学)。
(千年希望の丘8号丘からの眺め)
時間との闘いとなってきたが、今回は最後に宮城県山元町の震災遺構中浜小学校を訪ねた。ほかの場所と異なり、数名のグループごとに係の人が説明してくれた。2階建の校舎の屋上に子ども達や町民90名が避難し、屋上の倉庫で一夜を過ごした(当時の状況がそのまま残されている)。案内の方も言っていたが、津波の第3波が第2波の引き波とぶつかって減衰したため屋上で助かったのは単なる偶然だったそうだ。
(中浜小学校は2mかさ上げされていた)
今回福島県は時間切れで訪問できなかったが、帰りの常磐道からちらりと福島第1原発が見え、パーキングエリアには線量計があった。
首都高の渋滞もなく夜帰京した。走行距離は1900kmだった。
2022.4.19 石巻~仙台
宮城県石巻市は東日本大震災の死者数が約4000名と自治体として最多で、市中心部(南浜)には、県営の「東日本大震災津波伝承館」や、石巻市営の「震災遺構門脇(かどのわき)小学校」などがある。県営の伝承館は丸いガラス張りの建物で入場無料、10分くらいのシアターと展示パネルがある。しかし陽光降り注ぐ建物のためシアターが明るすぎて映りが悪い。設計ミスじゃないのか?
(ガラス張り)
石巻市営門脇小学校は先日オープンしたばかりで入場料600円で仙台の荒浜小学校のような感じだが、シアターは暗くなり体育館の中に仮設住宅が復元されていた。当日子ども達は裏山に避難して無事だった。裏山の日和山は桜が満開で、先日の日曜日は駐車場に入るのに3時間待ちだったそうだ。
(門脇小学校)
(川村孫兵衛)
東松島市は震災前にゼミ合宿で1泊150円のキャンプ場常設テントに泊まったことがあったが、津波ですべて流された。宮戸郵便局の前に貞観の地震(869年)の碑というのがあり(字は全く読めず)、2011年にはその碑のおかげで千人が避難したらしい。
東松島市の震災復興伝承館は津波に襲われたJR仙石線旧野蒜駅の駅舎で、駅のホームが震災遺構として保存されている。仙石線はどうしちゃったのかと思ったら、高台に付け替えられていた。
(駅まるごと震災遺構)
市内に航空自衛隊の松島基地があり、ブルーインパルスが轟音を上げて訓練飛行を繰り返していた。
(ブルーインパルス)
仙台まで戻ってきた。走行距離1500km
2022.4.18 気仙沼~石巻
気仙沼市街地は2011年の震災時に津波と火災にあい、地盤沈下もみられた。漁港付近では今も岸壁の方が道路面より高くなっている。安波山の復興祈念公園からは、気仙沼湾と昨年できた「かなえ大橋」がよく見えた。
(気仙沼湾)
気仙沼市では階上の気仙沼向洋高校旧校舎が震災遺構として保存されているが、今日は月曜日(休館日)で中には入れなかった。まわりに人がたくさんいると思ったら、ミニゴルフの大会?をしていた。市議会議員選挙中で、街宣カーが「どうぞ楽しんでくださ~い」と言いながら走り回っていた(大きなお世話だ)。
(壁の上部にコンテナがぶつかってこわれた)
近くの岩井崎は石灰岩のピナクルが林立して潮吹き岩もあった(三陸ジオパーク最南端)。節理に沿って侵食がすすみ、水が噴き出すのだろう。
南三陸町歌津では国の天然記念物「館崎の魚竜化石産地」があった。道の駅でもらったパンフレットを見たら「化石好きの聖地」と書いてあった。聖地を制覇。
南三陸町は2011年の津波で「防災庁舎」が水没し、鉄骨の骨組みが震災遺構となっている。隣に盛土造成した「さんさん商店街」と道の駅ができた。向かいのブライダルホール「高野会館」は最上階の4階まで津波が到達したが、屋上に避難した老人会を含む327人と犬2匹の命を救った。
(南三陸町防災庁舎)
石巻市にはいると追波湾に注ぐ新北上川河口があり(旧北上川は石巻湾に注ぐ)、河口から約3kmの右岸に大川小学校がある。前回来たときと比べ、震災遺構として整備され、伝承館も新築されていた(休館日)。
(石巻市大川小学校)
旧北上川河口の石巻市街地へ向かう前に、女川町を経由した。東北電力のおかげで?道の駅もリッチな感じだが、震災遺構の「女川交番」のインパクトがすごい。
(津波で横倒し)
石巻では名前につられて「タマホテル」というところにしたら、猫カフェならぬ猫ホテルだった。猫と遊ぶ大部屋があってさわり放題。テーブルの上に猫のご飯があるのかと思ったら人間のご飯だった・・・。
(オーナーと猫たち)
2022.4.17 大船渡~気仙沼
大船渡市立博物館は、石灰岩の化石と貝塚の展示が主要な内容だった。大洞式土器の大洞貝塚を見学に行ったが、工事中で道がわからず大洞集落の方にきいたら、車でついてこい、とずいぶん大回りして現場まで先導してくれた。三陸鉄道赤崎駅の近くだった。
(大洞貝塚)
三陸鉄道の南の終点盛駅は、JR大船渡線と乗り換え、と思ったら線路がない。2011年の震災後復旧せず、BRTのバス専用道になっていた。恥ずかしながら、BRTを初めて見た(学会で高校生がポスター発表していたのに)。
(JR盛駅)
陸前高田はもと高田松原の「奇跡の一本松」で有名だ。広大な更地と道の駅と震災伝承施設になった。「高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設」というらしい。天気は快晴、桜も満開の日曜日で、駐車場もかなり埋まっており、道の駅は大混雑。ホヤ天ぷら弁当900円を買って脱出、防潮堤のふもとで食べた。道の駅と並んで、東日本大震災津波伝承館があり、気合いの入った映像やパネル展示がある。周辺には一本松やユースホステル、旧道の駅の建物などが震災遺構となっている。震災遺構モニュメントとしては最大級だろう。
一方、陸前高田の中心市街地は内陸側に大幅にセットバックして盛土上のニュータウンになった。
(ホヤ天ぷら弁当)
(一本松とユースホステル)
岩手県南端まで来て、宮城県気仙沼市に入った。ここも震災のあとにボランティアで来たことがある(泥かきは一度で懲りたので、産直祭りの手伝いでホタテを売った)。ジオパークになっている唐桑半島先端まで行った。ビジターセンターの「津波体験館」が新バージョン(2011)になった。
(唐桑半島ジオサイト)
2022.4.16 釜石~大船渡
2011年の震災で「釜石の奇跡」と言われた鵜住居(うのすまい)地区の近くに箱崎というところがあり、震災後はじめてボランティア(泥かき)に行ったことを思い出し、立ち寄ってみた。ほかの地区も同じだが高い防潮壁ができ、風景は一変していた。道路沿いには明治29年・昭和8年・平成23年の津波慰霊碑が並んでいた。
(左から明治・昭和・平成)
ところで釜石は製鉄の町で、前日は世界遺産橋野鉄鉱山を訪ねたが、釜石鉱山というのもある。これがマニアにはたまらない場所で、別子銅山の「マチュピチュ」顔負けだった。鉱山事務所が国の登録文化財になっていて、外観はあまり目立たない建物だが、昭和の事務所がそのまま残っておりおもしろかった。
(釜石鉱山)
大船渡市内に入ったところで夕方になってしまったが、天気が回復し海岸の風景が目にしみた。
(合足の津波石付近;道がなかった)
(碁石海岸)
2022.4.15 宮古~釜石
宮古市の田老地区は「万里の長城」と言われた防潮堤があったが2011年の津波で破壊された。震災前、震災直後、その後も2回くらい訪ねている。道の駅たろうでは防災を学ぶツアーを受け入れている。きょうも2件くらい予約が入っているようだ。港の岩壁には明治と昭和三陸津波の到達水位標の上に、平成のプレートも追加された。
(一番上が平成の津波水位)
山田町の「まちなか交流センター」で震災の展示を見学しようと思ったら、入口に「岩手県緊急事態宣言のため県内在住者のみ」という看板がかかっていた。電話で県庁にも問い合わせたが、2月からずっと県独自の緊急事態宣言が発出されているとのこと。特にこの2、3日は過去最高の感染者数を更新しているので無理もない。交流は自粛しよう。
(赤字で「県内在住者のみ」と書かれている)
大槌町では庁舎が津波に襲われ、町長はじめ多数の犠牲者がでた。庁舎は取り壊されたが、文化交流センター「おしゃっち」に展示室があり、こちらは入館できた。ロビーには「ウクライナに平和を」というパネルがあった(震災でたいへんだったのに)。
(寄せ書き)
釜石には世界遺産「明治日本の産業革命遺産」構成資産である「橋野鉄鉱山」がある。インフォメーションセンターに着いたのが閉館10分前だったが、係のおじさん2人が丁寧に対応してくれた。(スマホはないので)タブレットにガイドアプリを入れてくれて、現場で説明が聴けたりVRで高炉の復元が見られたり、すごいハイテク。
2022.4.14 久慈~田野畑
岩手県久慈市は琥珀の産地で有名だが、石油国家備蓄基地もあった(知りませんでした~)。埋立地にタンクが並ぶのではなく、地下にトンネルを掘って石油を注入しているそうな。その作業坑が地下水族館になっていた。
(備蓄基地の展示の奥が水族館)
次の野田村は第三セクター(株)のだむらが製塩をしていた。明治頃まで海水を煮詰めて(塩田ではない!)製塩をしていたそうだが、平成になって復活、2011年の震災後高台に再建された。毎日毎日かまどに薪をくべて鍋で海水を煮て塩をつくっている。
(かまどが4基)
普代村では三陸鉄道の普代駅前に道の駅ふだいがあった。ローカル線駅前の道の駅は便利。普代水門は2011年の津波から村を守った。
(普代水門顕彰碑)
田野畑村は北山崎の海食崖がみどころだがあいにくの雨で写真はいまいち。
田野畑村では2011年の津波で破壊された「明戸の防潮堤」が震災遺構として保存されている。
(背後が新しい防潮堤)